たまごの発明のオーナー、一條です。
さあ今回の記事では、このお店「たまごの発明」を始めようと思ったきっかけをお伝えしようと思います。
一度切りの人生、いろんなことに挑戦したかった
まずは大学を卒業してからをお話しようと思います。
東京消防庁で救急隊を頑張っていた

当時23歳、学生の頃から目標であった東京消防庁に入ることができます。
しばらくはポンプ隊、いわゆる火消し隊として頑張っていたんですが、いろんな現場を経験するにつれて、救急隊になってみたいなと思うようになります。
東京消防庁はやりたい仕事がある場合、組織内で資格を取らないといけません。
例えば消防車の運転士や、レスキュー隊、はしご車の操作などですね。
しかし特に救急隊の試験は難しく、なんと3年をかけてようやく救急隊員になることができました。
僕は同時に運転士の資格も取ることができ、救急車の運転士として活動することになります。
当時を振り返ると救急車を呼ぶ人は変な人が多く、困惑することが多かったですが、仕事自体はとても楽しかったです。
そんなこんなで約8年を消防士として過ごしていたのですが、30歳をむかえるタイミングで人生をよく考えるようになったんです。
『このままずっと消防士で楽しいか?』
確かに生活するには問題ない環境なのですが、もっとドキドキ、ハラハラする経験をしたかったみたいなんです。
今でも多くの方には理解してもらえないですが、破綻するか大成功するかの人生を見てみたいと思うようになりました。
つまりは一度切りの人生なんで、自分で仕事を作ってみたいと思ったんです!
まったく稼ぎがなくなる

さて思い切って消防士を退職したものの、何をすればいいのか分かりませんでした。
上司に消防士を辞めて、何をする気なのかと問われ『まだ決めてません』と回答し、笑われたのを覚えています。
とりあえず何かを成し遂げたかった僕は、当時はやっていたSNSに目を付けるようになります。
2018年ごろでしたか、今のように誰しも発信するのがまだ当たり前ではなくて、インフルエンサーと呼ばれる者はチラホラしかいなかったように思います。
SNSでも特に力を入れたのはツイッターです。
人気者になれば、何かきっかけが生まれるのでは無いかと思い、頑張って発信を続けましたが、ほぼ成果を上げられませんでした。
ただこの時期に同時にやっていたのがブログです。
ここでホームページの作り方、文章の書き方を少し習得します。
もちろんブログ自体はほとんど収益をあげていないですが、スキルはちょっと手に入りました。
しかしまあご覧のとおり、何をやっても稼ぐことができず、ただただ退職金が溶けていくのでした。
キッチンカーとの出会い

そんな生活が半年続いたのですが、さすがにお金が無くなっていくだけの生活はキツいのです。
しかしとある日に、ホームセンターでたまたま出店していたクレープのキッチンカーを発見します。
そのお店が異常に輝いて見えたんです。
『これだ!』
その一瞬でキッチンカーをやってみたいという気持ちが膨れていきました。
キッチンカーならどこでも出店できそうだし、やるもやらないも自由だし、自分で全てを決められる。
そんなスタイルに惹かれていきます。
ということで、半年後に開業することを見据えて、準備を進めることにしました。
子供バスの送迎バイトもはじめまして、その間の生活というは、お昼過ぎまでキッチンカーの開業準備、14:00-夜までアルバイトというルーティンでした。
何も分からないキッチンカーについては、ネットで情報を得ることからはじめ、書いてあることを信じるがままに、約180万円の小さいキッチンカーを購入するのでした。
苦悩のキッチンカー開業
当時のキッチンカーを検索すると、耳障りのいい表現がたくさん出てきました。
『年収1,000万円も目指せる!』
『働く場所も時間も自由自在!』
『稼げるキッチンカー!』
メニューはもちろんクレープで勝負。大きな夢を持ってキッチンカーを購入し、入念な準備を重ね、いざ初出店をむかえます。
…全然稼げませんでした。
特に忘れもしないのが、やはり初日ですね。
100食は売れるんじゃないかと意気込んで準備したものの、10食とかだったと思います。
そもそもキッチンカーという業態は、リピーターがほとんど無く、ほぼ新規のお客さんがターゲットとなっています。
なぜかと言うと、いつ出店するかが不定期だからです。
買いたいなと思っても、いつもいるとは限らないです。いつも違う場所に出店するので、出会うことがめずらしいのです。
経験してよく分かりましたが「砂漠で水を売る」のがキッチンカーなのです。
近くに食べるものがなく、キッチンカーで食事を取るしかないという状況が一番キッチンカーが売れます。
また美味しいのが正解ではなく、美味しそうに見えるのが重要だったのです。
キッチンカーは超ブラック労働

そして何よりも、その営業サイクルがとても大変でした。
朝は6:00頃に起床
出発前に食材を積み込みして、1時間をかけて移動
8:00頃に現地に到着
9:00頃にオープン
小さいキッチンカーだったので、営業中は常に座りっぱなし
19:00頃に営業終了
20:00に現地を撤収
21:00頃に帰宅し、洗い物や片付け
お風呂や夕飯をとる
23:00頃から翌日の仕込みをはじめる
25:00時に終了、就寝
こういう毎日を過ごします。
自由になりたいと思いはじめたキッチンカーでしたが、とてもキツかったのを覚えています。
まさに1人ブラック企業状態です。
しかもそんなに稼げない。生き地獄でした。
コロナに直面
ブラックな環境ながら、キッチンカーも少しずつ売上を伸ばせていました。
2020年の3月には最高で42万円の売り上げでした。でもそんなもんです。

これからもっと伸ばしていくぞと、気合いを入れてときに起こったのがコロナ騒動でした。
4月、いつも通りに、いつもの出店場所のスーパーに行くと、本当に誰もいなかったんです。
売上は0です。
この日、キッチンカーを辞めることを決意しました。このまま続けていても何も意味が無い。
そう思いました。
しかし、それは辛かったキッチンカー生活から逃れらる理由として、同時にホッともしました。
『これでもう辞められる』
ただ何も改善はしていません。以前として収入が少ない状況が続くことになります。
キッチンカーを辞めてどうしようか?
新たな事業を考えはじめるのでした。
キッチンカーの仲介事業にシフト

キッチンカーを営業するときには、たまに仲介業者というのを利用していました。
例えばスーパーのマルエツに出店するときには、直接マルエツに連絡するのでなく、間に他の業者が入っていたんです。
なのでマルエツに出店料を支払うし、その仲介業者にも手数料を払っていました。
しかしある問題がありました。
それはある日のこと、マルエツに出店予定だったのですが、体調をくずし行けなくなってしまったんです。
そのことを仲介業者に連絡すると、驚きの回答が返ってきたんです。
『自分で連絡してくれる?』
え?
じゃあ、なんのために君たちはいるの?
そこで僕はたずねました。
『仲介業者なのですから、それはやってくださいよ』
そしたら相手はなんと激おこ
『なんだその態度は。自分で連絡しろ』
その瞬間思ったのです。
この態度で仕事が成り立っているなら、きっと自分にもできるだろうな。
その後、その仲介業者を利用することは無かったのですが、コロナをきっかけにキッチンカーを廃業した僕は”キッチンカーの仲介業者”というものに興味を持つのでした。
そこで立ち上げたのが、今でも事業を継続している「カケハシフードトラック」です。

失敗しても失敗ではない
このカケハシフードトラックは2020年の夏頃から始動し、今なお継続している事業です。
自分でキッチンカーを出店できる場所を探してきて、それを既存のキッチンカーさんに紹介するというお仕事ですね。
自分自身がキッチンカーをやっていた経験があるので、利用者さんの気持ちに寄り添えることができるのがメリットです。
このカケハシフードトラックを始めることによって、様々な繋がりを作ることもできました。
例えば船橋観光協会さんと一緒にイベントを企画したり、ららぽーとでイベントをしたり、印西のショッピングモールでも、イオンモールや大学、病院、研究施設など数えたらキリが無いほど、たくさんの偉い人に会ってきました。
そのどれもが刺激的なもので、消防士をやっていたら間違いなくできなかった経験です。
キッチンカーは結果として廃業してしまったんですが、キッチンカーをやっていなかったら、仲介業をやろうとすら思って無かったでしょう。
何者かになりたくて、なんとなく消防士を辞めたんですが、日々頑張っていたら、自分のなりたかった姿にちょっとだけ近づけたような気もします。
僕が伝えたいことは、目標を達成できなくても、何かをはじめることで見えてくるものがあるということです。
キッチンカーで稼ごうとして失敗しても、仲介業をやろうと決意できたのは、キッチンカーを始めたからなのです。
また店舗を経営してみたい
2020年から3年くらいカケハシフードトラックをしていくことで、自分もまた飲食店をやってみたいと思うようになっていきます。
それはイベントなどでたくさんのキッチンカーを見てくことで、やっぱり楽しそうだなと思ったことがきっかけです。
ただキッチンカーの厳しさ、辛さは十分知っていたので、やるならキッチンカーではなくて、店舗でと思っていました。
そこからはどうやって店舗を運営するのかを考える日々です。
そんなにお金があるわけじゃなかったので、やるなら小規模ということは確定していました。
ということで、最初に目を付けたのは自動販売機です。
自販機ならスペースはもちろん少ないし、人件費もかからないので、スモールスタートはピッタリだと思ったのです。
しかし何も分からない状況だったので、ここからはカケハシフードトラックを頑張りながら、どういう店舗をやっていくのかを考える日々がけっこう続きます。
メニュー研究の日々
自販機で提供できるメニューとして、最初に考えたのはスイーツ缶です。

見よう見まねで何度も作ってみたのですが、まずこのビジュアルを作るのが難しいです。
そしてスポンジ生地にフルーツ、生クリームと素材が多く、保存も効かないものだったので、自販機には向いていないんじゃないかという結論に至りました。
次に考えたのが、今川焼きです。
オークションで今川焼きの鉄板を購入し、生地を研究し、これも作りまくりました。
しかしこれも問題があり、購入した鉄板の今川焼きの高さが低く、お店のように分厚く作ることができませんでした。
生地の具合も難しく、水っぽいと硬さを維持できなくて、ひっくり返すのが失敗します。逆に粉っぽいと食感がボソボソします。
何より出来立てはおいしいのですが、冷やすと絶対においしくなりませんでした。
ということで今川焼きも諦めるのでした。
そして次に作ってみたのがプリンです。
これがなにかピンと来るものがありました。
冷やすことでおいしくなり、さらに賞味期限もけっこう長いんです。
材料もそんなに複雑でなく、作り方さえ研究すれば、いい線にいくんじゃないかと確信しました。
そこからはひたすらプリンの研究です。
特に難しいのは火加減の具合です。
熱を入れすぎるとボソボソになり、足りないと固まってくれません。
この絶妙な数字を出すのに、何度も研究を重ねました。
2年以上、2日に一度のペースでは作っていたと思います。
子供たちには毎日のようにプリンを振る舞いました。
何度も作っていくうちに、これで勝負したいと思うようになりました。
テナント探しは超大変

ということで、このプリンを自販機で売るために店舗を作ることにしました。
自販機で売るので、駅近など立地はどうでもよくて、とにかく大事にしたのは家賃の低さです。
できれば3万円、5万円くらいが上限かなという気持ちで、テナントを探します。
ただそんな低い家賃のテナントは本当に無いんです。
ネットで毎日のように検索するのはもちろん、いろんな不動産に電話し、実際に足を運び相談もしました。
少しでも気になる場所があれば、内見し撮影し、開業のイメージを当てはめたりもしました。
カケハシフードトラックの仕事をしながら、家ではプリンを作り、時間があればテナントをめぐる。そんな生活が半年から1年くらい続いたと思います。
そして遂に、家賃32,000円の物件を見つけます。
そこが今のたまごの発明なのですが、ここも100%満足のいく物件では無かったんです。
まず家からちょっと遠く、思ったより汚かったんです。
店舗の中はもちろん汚いんですが、周辺環境もあまり好きじゃないです。
ただ半年以上も物件を探して、これ以上探してたら、いつまで経っても開業できない気がしました。
汚さはDIYでなんとかするから、とにかく家賃が低いことが決め手となり、船橋市南三咲の物件に決定するのでした。
開業のきっかけは好奇心かな
ということで、ここからたまごの発明がはじまるのですが、続きはまた次回の記事にします。
今回のタイトルは”始めようと思ったワケ”なので、道のりは十分に伝わったと思います。
まとめると…
消防士を退職
ひょんなことからキッチンカーを始める
コロナ直面でキッチンカー廃業
キッチンカーの経験から仲介業をはじめる
いろんな店舗を見ていくうちに店舗運営に興味をもつ
たまごの発明のスタート
という流れになります。
本当に僕の人生は単純でして、そのときにやりたいと思ったことをやってしまうんですね。
いつも好奇心に踊らされているような気もします。
では今回はたまごの発明をはじめたワケを話してきたのですが、どのように店舗を作っていったのかは次回の記事で紹介していこうと思います。
気になった方は、ぜひ船橋市は高根公団駅にお店がありますので、遊びに来てください。では。
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